千歳町の凧印と屋台
その一  




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 千歳町の凧印

 


凧揚げそのものは、永禄年間(1558〜1569)頃、引馬城主飯尾豊前守
の長子の誕生をお祝いし、町民の呼びかけで大凧に名前を書いて揚げたのが始ま
りとされています。
 そして、江戸時代にはすっかり定着した凧揚げは、伝馬・塩・鍛冶・元魚・田
千歳・高・紺屋・肴・旅籠・板屋等の町がその後の凧揚会の中心を担うように
なっていったのです。

 当町の凧印は当初「立葵」とも言われ、当町の氏神様「松尾神社」の紋を凧印
にしていたと言われていますが、確かではありません。しかし、現在でも屋台の
提灯には町名と共に「立葵」の紋が掲げられて
います。

 この地方きっての古社松尾神社は元は浜松城内にあり由緒正しい神社です。
ご神体は「猿田彦命」で、別の名では「天狗」とも言われており、凧印も時が経
つにつれ「立葵」から力強い「天狗」へと変化し、他町の凧を威圧せんと若衆の
意気ごみを表したものと考えられます。現在の「天狗」の印になったのはいつ頃
からかは定かではありませんが、すでに明治45年の活動写真の記録や
昭和6年
の浜松まつりパンフレットには天狗の印となっています。


  
昭和30年度の凧揚げ  練兵場(現・和地山公園)
大先輩、懐かしい凧キチ君達の写真です





6帖(初凧)と8帖の凧揚げ


   浜松凧は正方形 で下の二隅が丸くなっています。
  大きさは、1帖が美濃大判紙12枚で、1.25m四方です。 
  6帖では、2.9m・8帖では3.25m四方となります。

      
      

                                       

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 法 被     


千歳町の法被



背中の町内の印は短冊に天狗の文字と
」の文字で出来ています。

昔の人の粋なデザインです。


裾の模様も天の文字を裏文字にしデザイン
化されています。


 て ぎ


凧を揚げるのに重要な道具「てぎ」


糸の出し入れを手早く行い摩擦で熱くならないようにする滑車!

風が弱い時には、テギ揚げと言い、早く糸を引き凧の
浮力を増化させます。
また、合戦での使用は他町より、より早く糸を引き、
その摩擦抵抗で糸を切ります。  

糸の出し入れは、糸先の長年の経験で左右します



 糸 枠
糸 枠

大きな糸巻きの事を言います。

直径約8mmの麻糸が巻かれていま



 


町内の凧印を旗にし、遠くからでも町の居場所が
確認出来ます。

凧揚げでは、陣屋、糸先、糸枠等に! 


夜は屋台の先頭、練りの先頭で町民を統率しています



 ラッパ
ラッパ

本来、浜松まつり「凧揚まつり」には無かった
鳴り物でしたが、いつしか、統率力をあおる鳴り物の
一つとして、現在では、無くてはならない物です。  
(以前、凧揚げ会場は、練兵場跡地で行われていたので、
軍の突撃ラッパの勇ましさが、凧揚げ合戦にマッチし、
取り入れられた物だと思われます。)

当然、ラッパと笛、太鼓の音で町民の心は一つに!
 ワッチョ!ワッチョ!





 初練り

初練り

屋台が終了すると、続いては初練り!

組長を先頭に町内の若衆が初子さんのお宅に
お祝いに駆けつけます。
初子さん宅では、皆さんに酒、料理等でもてなします。

初子さん・ご両親を中心に万歳三唱や激練りで
健康で健やかに育つようにとお祝いします。 

両親にとって一番感激出来る時だと思います。
  



   風 心 会  

 

  平成6年に作られた風心会旗
浜松まつり「凧揚げ合戦」正統派

旧市街・中央地区の鍛冶町・肴町・田町・大工町
・伝馬町・千歳町 友好6町の会

風心会が出来たのは、昭和60年頃(20年前)まつりも
参加町が年々増え、きれいな合戦をするために!
そして幼なじみが信頼関係を再確認しあい、
伝統と技術を大切に伝承して行くために発足されました。


合戦は毎年3日の12:30頃に風心会旗を賭け6町だけで
行われます。
また、合同練りは3、5日の屋台の終了直前20:30頃、
その日の締めくくりに行っています。

 是非、1度は練り独特の「すり足」を見て下さい。